笹団子で厄払い。

2019年6月8日

笹団子で厄払い。

江戸の天王祭で争奪戦

笹団子に親しみがある新潟の方たちは、
江戸の天王祭で笹団子をお守りとして奪いあったと聞けば目を丸くすることでしょう。

特に有名だった東京・浅草橋の天王社(現・須賀神社)は、江戸時代から、「団子天王」と呼ばれ親しまれました。

明治以後、祇園牛頭天王を祀る天王社の名は廃止されましたが、人々に親しまれた「天王さん」「祇園さん」の呼び名は健在です。京都の祇園さん(現・八坂神社)の祭には、厄除けの粽(ちまき)が授与されます。粽といっても今のような食品ではなく、綜のかたちをした門守りです。それが江戸の天王社では、綜でなく団子、それも笹団子が厄除けの縁起ものでした。

その笹団子は、新潟のようなものでなく、笹竹の枝に小さな団子や餅をつけたものでした。ちょうど今ごろにあたる旧暦6月満月の頃、厄除け祈願として笹団子をつくり、天王社へ奉納したようです。

それを参詣者に頒けたのですが、そのご利益ある団子をわれ先にもぎ取ろうとする人たちが出てきました。これから奉納に向かう人がささげ持つ枝に群がるほどの人気となったとか。奉納する段には、笹の枝には団子がついてないようなありさまに・・・。そんなにせっかちな江戸っ子には恐入りますが、誰かが持ち去るということにも、厄を祓う、厄を落とすという意味合いがありました。

しかし、奉納する人が絶えた現在は、参詣者へ授与すため、氏子たちが神社でつくることで行事が続いています。ですので、落ち着いて祭礼に出かけ、笹団子をいただいて帰ることができます。

笹団子は、「笹団子守」ともいわれ、護符ですから、病にかかった時は、煎じて飲んでたそうです。今のような薬がない時代、白米でつくった団子は、米の霊力によって、厄を祓うことができると信じられていたのです。

新潟の笹団子も、オオヤマボクチやヨモギを入れること、笹の葉で包むこと自体に、厄除けの意味があったわけです。米をわざわざ粉に挽いてつくった団子や、モチ米がみっちりと詰まった綜は、今はおやつ程度にしか思えないかもしれませんが、贅沢な行事菓子、厄除けの縁起菓子だったのです。

こうした菓子をつくることができた新潟県は、本当に豊かだったと思います。

その豊かさは、先人たち丹精込めた米づくりや、新田開墾、洪水など災害との闘いのおかげです。そして、その闘いと表裏一体だった、豊作を祈る行事も、あらゆる節目に繰り返し行われました。ですから、新潟県は稲作に結付く護符や縁起菓子の宝庫でもあるのです。いくつかの例をあげれば、正月・小正月の鏡餅やまい玉は、天神さまやお雛さまのあられに炒り、涅槃会(ねはんえ)の団子は田んぼに入れ、収穫後の稲わらは、正月のしめ縄へ、というように。

そして、米からは米飴とう滋味豊かな甘味料もできました。県内に多い「飴もなか」は、皮も身も米だけでつくることができる菓子なのです。
また、「翁飴」は、大地の恵みである米飴と、海の恵である寒天(てん草)を透明感あるしたたりに仕上げ、そのふたつを合わせた菓子です。新潟のエッセンスを擬縮した名菓だと思います。

旧暦時代の6 月16日、暑さがきびしくなる今ごろ、菓子を食べることで厄を祓う行事「嘉祥」(かじょう)がありました。宮中からはじまった「嘉祥喰」は江戸の庶民も大いに楽しんだようです。
嘉祥喰の気分で笹団子や粽で厄払いといきましょう。

(菓子文化研究家、グラフィックデザイナー=長岡市出身  溝口 政子)